私の青春時代から
      その後の私
 昭和33年取締役、39年専務取締役として本社経営を見るようになりました。
 営業所も拡大し四国一円はもとより大阪、名古
屋、東京と広がっていきました。
 車両も大小400台、人員も約500名の会社に
なり、昭和52年より代表取締役社長として、頑張って参りました。
 長年、運送業を行っていると一番事故に悩み
ます。事故をどうしたら減らせるか。いろいろ試行錯誤をしながら試しておりました。
 その当時、警察署推奨のバイオリズムという一人一人の生命リズムを把握して、体調の悪い危険な日を予知する、というものを試したりいたしましたが、結構効果も出ました。
 これは、人の相性も見ることが出来、ちなみに私と妻との相性を見てもらいますと100%という結果でした。と言うことでもないのですが、来年2月で結婚60周年を迎えますが、一度も言い争いをしたことがないのが二人の自慢です。


 今までの私を見てみますと、戦争中の九死に一生を得たことや、東京から出張帰りに予約をしてあった飛行機便より一便早く帰ったところ、予約便が例の松山沖の飛行機事故便だったりした事もあり、つくづく自分の運の強さに感心したり感謝したりしております。
 健康面でも、命の危険にさらされたことも何度かありましたが、家内の内助の功に支えられ、社員の方々や、周りの皆様方に支えられ、会社も拡大し、各種トラック関係、外団体の会長、理事長外17種類の役職もこなすことが出来ました。

 お陰で、勲四等旭日小綬章や紫綬褒章その他、数多くの章を戴き、本当に身に余る光栄と深く感謝いたしております。
 又約25年間は、色々なことで活動も十分出来ず、ライオンズクラブの皆様には、大変ご迷惑をお掛けしたことと思います。
 これからも、健康には気をつけて、どこまで頑張れるか解りませんが、頑張ってまいりますので、宜しくお願い申し上げます。

    
北 野 孝 夫
 ナホトカより舞鶴
経由で日本に復員しました。
 やっとの事で我が家に帰りましたが、「本当に生きていて良かったな。」と安堵するとともに、あの悲惨な戦争が夢の中の出来事のような気持ちで、他人の家にいるようでした。
 我が家も新築されているし、身内や親戚近所の方々も見違える程変わって おりました。戦地からの復員兵としては、一番早く帰ってきたぐらいですから、戦死した友の家をまず弔問しました。
 
 それから、戦友に会いに行ったりと約半年間は、私の心の整理のために何も手につかない状態でした。そのうち、心配した親戚や近所の方々から結婚話や就職等の話がありました。やっと、私も自分自身の生活設計を立てなければと思うようになり、何度かお見合いをしましたが、なにかしっくりとしませんでした。
 
 そのうち運送会社を経営している娘との見合い話があり、就職も出来るからちょうどいいという事になり会ってみることになりました。会ったとき、何か不思議に心が惹かれ、とんとん拍子に話が進み、昭和23年2月に現在の妻と結婚式を挙げました。

 3月に三豊運送鰍ノ入社いたしましたが、入ってみるとなかなか大変でした。しかし入社した以上は、早くトップを目指し責任ある行動をせねばと思ったのですが、なにぶん企業が合併した会社なので一人一人が親方気分で何をするにも前に進みにくい会社でした。
 当時は全車両が木炭車で27〜28車位で運営していました。
 その当時は、自動車学校など無く、自分で勉強するしかありませんでした。目標は、早く運転免許を取得することでした。毎朝、木炭車に木炭を入れ火をおこし、エンジンを始動させる事から始めなければなりませんでした。顔も手も真っ黒になって働きました。
 昭和25年頃新居浜に路線事業と区域事業の営業所を新設することになり初代の所長として赴任してきました。毎日、朝6時の汽車で観音寺から通勤しておりましたが、32年に家族ともども新居浜に引っ越してまいりました。
 以来、新居浜人として活動しております。