私の青春時代


 

 

   
若き日の一息 於 琿春

 捕虜になってからの急激な環境の変化に自殺者も沢山でました。
 十分な食料もなく唯20日間歩き通しでした。道中、食うや食わずで、トウモロコシや根っこをしゃぶり、ジャガイモなどを生でかじるとか、本当に空腹と疲労で精神的にも肉体的にも最悪でした。
 そのうちやっと北朝鮮の富寧の元カーバイト工場跡に収容されました。そこは、何にもなく莚と雑草の中で眠るという始末でした。食料も十分無くその上我々戦闘部隊は、夏服のため10月ともなれば寒くて大変でした。

 10月の終わりにやっと、問島省延吉(カントンショウ
エンキチ)にある元師団司令部の兵舎だったところに収容されました。そこには、元兵士や警察官等約1万人ほど収容されましたが、充分な衛生管理の出来ない状態で、一冬で半数近くの人が発疹チフスと栄養失調で亡くなりました。
 
 私も発疹チフスに罹りましたが運良く一命を取り留めました。毎日凍った大地を掘り起こし、亡くなった人たちを埋葬する作業に明け暮れました。
 
 ここの寒さは、マイナス30度以上で日本では考えられない寒さでした。
 やっと春になり健康な人1,000人ほどでソ連のナホトカに収容され毎日の作業は港湾の建設・個人ドーム(家)の建設に使役さされ希望のない毎日でした。
 
 私は、そのうち同僚達10人程と、約10数キロ離れたコルホーズに派遣され、毎日、民間人と一緒に、キュウリや人参・ジャガイモを作りました。当時そこには、若い男性は一人もいなく、お年寄りと女の人ばかりででした。貴重な牛乳の差し入れなどもあり、身体もとても楽で精神的にも癒され、大変な中でも楽しい日々で、今考えると、とても幸運に恵まれていたと思います。
 
 10月に入り、作業を終えナホトカに帰り、本隊と合流しました。その後、12月に入り、日本に帰れるのではないかという噂で持ちきりになりました。
 誰が一番に帰れるのか?・・・・。
 私も運良く第一便で帰ることが出来、昭和21年12月末に舞鶴に帰り着きました。
 
 人間として誰にも味わってほしくない、二度とあってはならない戦争という最低最悪の環境の中で、耐えることのよって得られた、精神力と体力・忍耐力・決断力。そして九死に一生を得たこの運の強さ。
 今日の自分を考えたとき、本当に言葉には表すことの出来ない何か不思議なものを感じます。
 
                   「その後の私」へ
 
北 野 孝 夫
 人間は、その人それぞれの宿命や運を背負って生まれてくるように思います。
 私は、満85歳を過ぎ、結婚60周年を来年に控え今までの人生を振り返ってみました。85年間の人生の転機の時には、いつも不思議に、「運」に恵まれ「つき」に恵まれ奇跡的に生き延びてまいりました。
 昭和11年、14歳になった私は、狭い日本より広い大陸に憧れ、大志を抱き、叔父の勧めで満州に渡り、学校に行きました。そして、事業家として成功していた叔父の家に養子にはいることになりました。
 木材・金山・鉱山をいくつか持ち、満鉄に資材を入れていました。見渡す限りの広大なお屋敷に、沢山の使用人、膨大な贈り物。調理人が何人もいましたので、毎日、ありとあらゆる食材を使った料理を出してくれました。
 
 私には、いつも付き人がついていて、今では考えられない生活環境でした。そのうち私も21歳
と、適齢期になり徴兵検査に合格。
 叔父の知り合いの部隊長に縁があり琿春県(コンシュンケン)五家子という国境守備隊に入隊。
 第1期・第2期と教育訓練を受け大変厳しい毎日でした。精神的にも肉体的にも苦労はしたけれど私は、いろいろと優遇されたように思います。
 というのは、翌年3月には同僚仲間が半数以上南方に転属になり大部分の戦友が戦死したと聞きました。
 その後、4月に入り私にも転属命令が出て旅順の幹部教育隊に派遣され、1年間教育訓練に従事。
 そこは、日露戦争で有名な地203高地でした。
 昭和20年4月に現隊に復帰。下士官候補の教育係を命ぜられ教育訓練に従事しておりました
が、8月8日の夜に、突然ソ満国境に戦闘が始まり不意をつかれ部隊は壊滅に近い痛手を受け第2線・第3線の敵地に後退しながら戦闘を続行しておりましたが、8月30日になり師団軍司令部よりの報に接し終戦を知りました。
 
 戦闘中に私は3度ほど死にかけましたが奇跡的に生き延びることが出来ました。
 1度などは、重大な使命で緊急に伝令役として第1線敵陣地に行くよう命令を受け、乗馬したのですが、馬がどうにもいやがって出発しません。
 そうこうしているうちに次々と戦友が出発し、帰らぬ人となってしまいました。
 その時ほど、自分には生き運があると感じたことはありません。
 終戦になり、ソ連兵により武装解除を受け捕虜としての扱いになり、最悪最低の待遇に変わり、身体も大変きつく、みんな毎日が命がけでした。